「大森丼」の由来

 

古来より日本人は海苔を食していました。

各地の沿岸に自生する岩海苔などを採取し食用としていました。

縄文時代の遺跡にもその痕跡が見られます。

江戸期に入り、徳川家の保護もあり、海苔養殖の技術が進み東京湾での生産量が大幅に伸びました。

初めは葛飾で行われていたが、それが品川、大森、羽田と広がっていきました。

それらの地は隅田川や多摩川の河口にあたり、淡水と海水の混ざり合う場所でもあります。

その良質の水が、香りの高い、焼き上げた際の色が際立つ素晴らしい海苔を育てました。

海苔を商う問屋が浅草に多かったので、東京湾の海苔を総称して「浅草海苔」と呼ぶようになったと言われてます。

今では全国的にその名が使われております。

大森から羽田にかけての沖合は遠浅のため、竹ヒビが立てやすく、面積も広く量産に適していました。

数百軒の漁師が海苔漁に従事していたと記録に残っております。

季節ともなれば、べか船や母船で働く人々も相当の人数を数えた事でしょう。

 

ところで、彼らの食事はどのようなものだったのでしょうか。

残念ながら文献等にはそこまで載っていません。

そこで様々な方面に調査の輪を広げてみた結果、昼食は弁当であったようです。

彼らの労働時間は長く、潮の干満により不規則になりがちで、昼食はほとんど船上でとらざるを得ない環境下にありました。

必然的にシンプルで、あまり手のかからない弁当になったという事でしょうか。

飯は酢飯であり、その中に椎茸や干瓢を甘辛く煮て刻んだものや、奈良漬などを混ぜ、上に、主に近海で獲れる魚介類の小肌、芝海老、穴子、あさり、シャコなどを生では使わず、熱を加えたり、味付けしたものをちらし状に載せ、手前物の焼海苔を持ち、今でいう手巻き寿司風にして食べたのではないかという説が、古老の方々からの聞き取りによる調査で得られました。

手掴みで食べられ、味付けの必要もありません。

狭い船上での食事には最適です。

中に入った漬物のパリパリとした心地よい歯触りに、船上を渡る風の爽やかさも加わり、厳しい労働の後の昼食は、何にも増して楽しいひと時であったと想像されます。

午後の仕事への活力が沸いてこようというものでありましょう。

 

このようにわが大森は、多摩川、東京湾の海の幸に恵まれ、さらには全国に誇る海苔文化を持つ地域であります。

歴史ある郷土の文化を少しでも現代に残そうと、基本にほぼ忠実であるよう考案したのが、この「大森丼」であります。

 

由来を調べるにあたり、大田区立郷土博物館元館長で、海苔の研究に於いては我国最大の資料を持つ慶応大学名誉教授の故・西岡秀雄教授にご指導ご助言を、また大森貝塚保存会の事務局の方々にも多大なご協力を頂きました。

 

「大森丼」の味わいが、人々のいにしえと未来を結び、さらなる郷土への愛着を呼び起こすものになればと願っております。

このような素晴らしい贈り物を与えてくれた大森の海と人々に心より感謝を捧げます。

 

冨士家